【チャイコフスキーとシベリウスの生い立ち】 ●第11回

 

一般的にチャイコフスキーはロシアの作曲家の中でも作風がヨーロッパ寄りだと言われていて、国民楽派として扱わない人もいる。本人も1880年に完成した弦楽セレナーデを作曲した際に、モーツァルトを意識して書いたという手紙をパトロンのナデジダ・フォン・メックに宛てて書いている。また、すでに何年も前に大成功を収めていた交響曲第2番も1880年になってから大改作した。初稿は抒情的でドラマティックな、いわゆるチャイコフスキーらしい交響曲であったのだが、それを感情表現が抑制された古典派的な行儀のよい作品に変えている。次第に国際的に名が知られていくにつれて、西ヨーロッパ的な視点で見られたとしても評価される作品に近づけたいという意識が見て取れる。また、実際にヨーロッパ各地を旅することも多くなった。


この頃に作曲されたヴァイオリン協奏曲では不運なことに見舞われた。まず、この協奏曲を完成させると、当時のロシア最大のヴァイオリニスト、レオポルド・アウアーに見せて初演をしてもらおうとしたが、アウアーに「演奏不可能だ」言い切られてしまいペテルブルクでは発表が出来なくなってしまった。

 

すると、この行き場のなくなってしまった協奏曲を拾い上げるものがいた。アドルフ・ブロドズキーというロシア出身でヨーロッパ在住のヴァイオリニストである。彼がこの協奏曲を1881年、ウィーンフィルハーモニー管弦楽団の演奏会で初演した。ところが、これに対し当時の音楽界で影響力のあったウィーン大学教授の評論家ハンスリックが酷評を下した。ロシアの安酒の悪臭がするという。この言い回しは、作品が心を捉えないという意味ではなく、強い嫌悪感を覚えたということだ。また、ハンスリックから見たロシアという辺境国の人間に対する蔑みの感情も含まれている。

 

シベリウスも留学中にこのような視線を浴びることが多かったはずである。彼に下された「粗野で野蛮」との評価もその一例といえる。


今日では、チャイコフスキーもシベリウスもそれまでのヨーロッパ中心部の音楽と違うからこそ価値があるとされている。しかし、当時は遅れた地域の感性、もっと悪く言えば田舎者のセンスとされてしまう場合も少なからずあり、批判を受ける側も甘受していた。


このヴァイオリン協奏曲の頃から1888年に交響曲第5番が完成するまでの期間に完成した、主要作品が少なく、チャイコフスキーのスランプ期と言われている。しかし、ようやく完成した交響曲第5番も初演当初の批評は厳しいものであり、本人ですら「大げさに飾り立てられた、作り物のいやらしさがある。」との自己批判をナデジダ・フォン・メック宛の手紙で述べている。スランプ期以前の交響曲第4番についての手紙では「わたしの最も優れた交響曲のように思える。」と書いているのと比べると第5番はかなり自信がないことがわかる。チャイコフスキーは学生時代から大変な勉強家で、批判を受けたり、足りない部分を見出したりすると実にまともに取り組むのである。

 

しかし、芸術である以上、万人の賛同を期待することは無理であり、特に作曲などの次々と新しい作品を創造する分野は、欠点に胡坐をかいてでも個性的なものが必要になってくる。

 

チャイコフスキーはしっかりとした技術を持ち、自分のスタイルも確立していた。それにもかかわらず、他人から受けた指摘に向き合い、自己批判をおこたらず、努力家であるがゆえに答えのないものを追う羽目になったように思われる。作品がヨーロッパ風だというのも、自分のスタイルの欠点を補おうという彼の真面目さが表われているのかもしれない。

チャイコフスキー

 

次記事≫ ●第12回 好きな事に熱中するシベリウス

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【チャイコフスキーとシベリウスの生い立ち】 

はじめに

●第1回 チャイコフスキーの幼少期 〜趣味音楽をたしなむ父母、家庭教師の影響〜

●第2回 法律学校で学びながらピアノに向かう 〜母の死、そして、音楽の潤い〜

●第3回 脱サラして音楽の道へ 〜熱心に学び、活動をスタート〜

●第4回 音楽愛好家一族に生まれたシベリウス

●第5回 厳格な母方の環境、自由な父方の環境

●第6回 フィンランド語系の学校へ転入 〜カレワラを学ぶ〜

●第7回 シベリウスの音楽的興味 〜ヴァイオリン奏者を目指す〜

●第8回 新設音楽院では優等生のシベリウス

●第9回 留学地ヨーロッパでのシベリウス

●第10回 チャイコフスキーとシベリウスの特徴

●第11回 勤勉なチャイコフスキー

●第12回 好きな事に熱中するシベリウス

【チャイコフスキーとシベリウスの生い立ち】 

 

一般に言われている国民楽派という分類も曖昧ではあるが、ルネサンスと無縁な国から輩出された音楽家のことをいうのであれば、この二人の作曲家はその代表者だと言える。二人を比較しながら、その対照的ともいえる特徴を考えてみたい。

 

 勤勉なチャイコフスキー

 好きな事に熱中するシベリウス

 

次記事≫ ●第11回 勤勉なチャイコフスキー

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【チャイコフスキーとシベリウスの生い立ち】 

はじめに

●第1回 チャイコフスキーの幼少期 〜趣味音楽をたしなむ父母、家庭教師の影響〜

●第2回 法律学校で学びながらピアノに向かう 〜母の死、そして、音楽の潤い〜

●第3回 脱サラして音楽の道へ 〜熱心に学び、活動をスタート〜

●第4回 音楽愛好家一族に生まれたシベリウス

●第5回 厳格な母方の環境、自由な父方の環境

●第6回 フィンランド語系の学校へ転入 〜カレワラを学ぶ〜

●第7回 シベリウスの音楽的興味 〜ヴァイオリン奏者を目指す〜

●第8回 新設音楽院では優等生のシベリウス

●第9回 留学地ヨーロッパでのシベリウス

●第10回 チャイコフスキーとシベリウスの特徴

●第11回 勤勉なチャイコフスキー

●第12回 好きな事に熱中するシベリウス

【チャイコフスキーとシベリウスの生い立ち】 ●第9回 

 

1889年、ヘルシンキ音楽院を終えたシベリウスはベルリンに留学する。

 

ここで師事したアルベルト・ベッカーは古いスタイルの作曲家でシベリウスは内容的に不満があったようだが、それでもこの師は推薦状をかいて奨学金が得られるように取り計らってくれた。また、そういった古典的なスタイルを十分に学んだことは、大いに意味があったはずである。


ベルリンから帰国すると次はウィーンに留学した。ベルリンでは音楽のスタイルが古いといった不満をもったシベリウスであったが、このウィーンはヨーロッパ中からの有能な若い音楽家が集まっており、今までのように特別に輝いた存在とはならず、ヴェゲリウスやベッカーのような暖かい扱いは受けなかったようだ。「粗野で野蛮な音楽」という評価を受けた。

 

また、作曲のレッスンを受ける一方、ヴァイオリンでウィーンフィルハーモニー管弦楽団の入団試験も受けている。彼があがり性だったためにこの試験で失敗したと伝えられているが、そもそもヴァイオリンの学習歴を見る限り合格するのは難しかったように思われる。ピアノやヴァイオリンという楽器は、モーツァルトやベートーヴェンの時代からすでに早期教育が行われ、練習量も年齢に見合わない程なされていた。ウィーンといえばヨーロッパ各地からそういった訓練を積んできた者が集まっており、音感が良いという程度で、楽しみを優先して学んできた彼は、かなり見劣りがしたはずである。また、作曲志望者の多くもそのようにしてピアノ等の器楽を学んできており、シベリウスが特別に期待される存在で無かったとしても不思議ではない。


しかし、シベリウスはこのウィーンで管弦楽法を学んだ。それまでの彼は、管弦楽に触れたことがなく、書いてきた作品も室内楽曲や独奏曲だけだった。後の活躍を思えば、この地でオーケストレーションを習得したということが、学生として優秀だったかどうかといった下世話なことよりもはるかに大きな価値があった。


1891年、シベリウスは留学生活を終えフィンランドに帰国し、ここでウィーンにいたときから着想したクレルヴォ交響曲を書き進める。完成は翌年に持ち込まれ、1892年4月28日に初演がおこなわれた。結果は大成功で作曲家シベリウスの名が広く知れ渡った。

 

次記事≫ ●第10回 チャイコフスキーとシベリウスの特徴

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【チャイコフスキーとシベリウスの生い立ち】 

はじめに

●第1回 チャイコフスキーの幼少期 〜趣味音楽をたしなむ父母、家庭教師の影響〜

●第2回 法律学校で学びながらピアノに向かう 〜母の死、そして、音楽の潤い〜

●第3回 脱サラして音楽の道へ 〜熱心に学び、活動をスタート〜

●第4回 音楽愛好家一族に生まれたシベリウス

●第5回 厳格な母方の環境、自由な父方の環境

●第6回 フィンランド語系の学校へ転入 〜カレワラを学ぶ〜

●第7回 シベリウスの音楽的興味 〜ヴァイオリン奏者を目指す〜

●第8回 新設音楽院では優等生のシベリウス

●第9回 留学地ヨーロッパでのシベリウス

●第10回 チャイコフスキーとシベリウスの特徴

●第11回 勤勉なチャイコフスキー

●第12回 好きな事に熱中するシベリウス

【チャイコフスキーとシベリウスの生い立ち】 ●第8回 

 

ヘルシンキ音楽院ではマルティン・ヴェゲリウスから指導を受けた。

 

ヴェゲリウスはフィンランド歌劇場の監督で、ピアノ、作曲もするが、何よりもこの音楽院を創設しての教育活動こそが彼の最も大きな業績である。この当時、音楽院はまだ設立して数年しか経っておらず、木管楽器のクラスもなく、生徒の多くは良家の子女であり、初級者レベルの者も多かった。こんな中で、シベリウスが抜きんでた存在だったことは当然なことだった。


数年すると、この音楽院にまだ若いがすでにヨーロッパで名声を挙げていたフェルッチョ・ブゾーニがピアノ教師として赴任してきた。

 

ブゾーニはレッスンに犬を連れてくるという変わり者で滞在期間も短かったが、その初歩的な生徒たちに失望しつつも、忍耐と誠意を持って指導に当たったと見え、後日、バッハのインヴェンションとシンフォニアを校訂した版(ブゾーニ版)をこの音楽院に献呈している。ブゾーニは年齢の近いシベリウスの才能に気づき、学生と指導者という立場でありながら、すぐに意気投合した。このシベリウスとブゾーニとの友好関係は生涯続いた。

 

また、この音楽院で、シベリウスはアルマス・ヤーネフェルトにも出会う。シベリウスと同じように法学部を辞めて来ていた。このアルマスの妹が後にシベリウスの妻となるアイノである。

 

次記事≫ ●第9回 留学地ヨーロッパでのシベリウス

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【チャイコフスキーとシベリウスの生い立ち】 

はじめに

●第1回 チャイコフスキーの幼少期 〜趣味音楽をたしなむ父母、家庭教師の影響〜

●第2回 法律学校で学びながらピアノに向かう 〜母の死、そして、音楽の潤い〜

●第3回 脱サラして音楽の道へ 〜熱心に学び、活動をスタート〜

●第4回 音楽愛好家一族に生まれたシベリウス

●第5回 厳格な母方の環境、自由な父方の環境

●第6回 フィンランド語系の学校へ転入 〜カレワラを学ぶ〜

●第7回 シベリウスの音楽的興味 〜ヴァイオリン奏者を目指す〜

●第8回 新設音楽院では優等生のシベリウス

●第9回 留学地ヨーロッパでのシベリウス

●第10回 チャイコフスキーとシベリウスの特徴

●第11回 勤勉なチャイコフスキー

●第12回 好きな事に熱中するシベリウス

【チャイコフスキーとシベリウスの生い立ち】 ●第7回 

 

この時期、シベリウスは徐々にピアノからヴァイオリンに興味が移っていった。ヴァイオリンは父方の伯父ペールが弾いていた。ペールはトゥルク出身のビジネスマンで、彼の趣味はヴァイオリンを弾くことの他に、望遠鏡を持っていて星の観察もしていた。また、音楽理論の知識はなかったが、作曲も試みている。


15歳になるとハメーンリンナの軍楽隊長グスタフ・レヴァンデルについて正式にヴァイオリンのレッスンを始めた。後年、シベリウスはヴァイオリンのレッスンを始めたことで、「音楽に囚われた。」と述べている。いずれは、職業ヴァイオリン奏者になろうとの思いも強くなり、練習にも精を出すようになった。この時期、姉のリンダがピアノ、弟のクリスティアンがチェロ、そしてシベリウスがヴァイオリンという形でトリオを組みホームコンサートなどで演奏している。


しかし進学の時期になりシベリウスが音楽の道に進みたいと言い出すと、親族一同が反対し説得に力を注いだ。現代でもよくある話だが、当時のフィンランドではまだ音楽家の地位も低かった。職業音楽家がいないわけではなかったのだが、そのような分野はまだ黎明期であり、彼の志望に強く反対したとしても、芸術に無理解だったという訳ではない。


1885年、一応ヘルシンキ大学の法学部に進学した。しかし、シベリウスはそもそも課せられた義務にひれ伏して勉強をする事などできる性質ではなかった。法学部に籍を置いたままヘルシンキ音楽院に通い始めることになった。法学部をやめなかったのは、尚も反対する親戚の手前そのようにしただけであって、シベリウスはすでに戻る気など毛頭無かったであろう。1886年、とうとうヘルシンキ大学を退学した。

 

次記事≫ ●第8回 新設音楽院では優等生のシベリウス

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【チャイコフスキーとシベリウスの生い立ち】 

はじめに

●第1回 チャイコフスキーの幼少期 〜趣味音楽をたしなむ父母、家庭教師の影響〜

●第2回 法律学校で学びながらピアノに向かう 〜母の死、そして、音楽の潤い〜

●第3回 脱サラして音楽の道へ 〜熱心に学び、活動をスタート〜

●第4回 音楽愛好家一族に生まれたシベリウス

●第5回 厳格な母方の環境、自由な父方の環境

●第6回 フィンランド語系の学校へ転入 〜カレワラを学ぶ〜

●第7回 シベリウスの音楽的興味 〜ヴァイオリン奏者を目指す〜

●第8回 新設音楽院では優等生のシベリウス

●第9回 留学地ヨーロッパでのシベリウス

●第10回 チャイコフスキーとシベリウスの特徴

●第11回 勤勉なチャイコフスキー

●第12回 好きな事に熱中するシベリウス

【チャイコフスキーとシベリウスの生い立ち】 ●第6回

 

1872年、シベリウスはスウェーデン語系の学校に入学する。

 

そもそもフィンランドは長い間スウェーデンの支配下にあったので、官庁用語や新聞、あるいは教育もスウェーデン語が用いられていた。当然、有産階級や学問に従事する者はスウェーデン語が必要であり、そもそも母国語としていた人が多かった。

 

当時のフィンランドでは14パーセントの人がスウェーデン語を母国語としていた。今日でも6パーセントの人がスウェーデン語を用いていて、現在もなお公用語として認められている。正確に言えば、フィンランド語の方が後から公用語なったわけである。シベリウスの家庭でも、スウェーデン語が使われていた。

 

ところが、シベリウスは1874年になるとハメーンリンナに出来たばかりのフィンランド語系の学校に転入した。ここではじめて原語(フィンランド語)で「カレワラ」を学んだりしたので、後々の影響を考えると、この転校の決断は変わりゆくフィンランドで、祖母カタリーナ・ボルィらに先見の明があったといえる。しかし、肝心のシベリウスはあまり勉強好きではなく、成績もそれほど良くはなかった。

 

カレワラ:『アイノ』(アクセリ・ガッレン=カッレラ、1891年)

 

 【関連記事 ≫フィンランド人の民族意識 〜シベリウスも題材にした 叙事詩「カレワラ」〜

 

次記事≫ ●第7回 シベリウスの音楽的興味 〜ヴァイオリン奏者を目指す〜

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【チャイコフスキーとシベリウスの生い立ち】 

はじめに

●第1回 チャイコフスキーの幼少期 〜趣味音楽をたしなむ父母、家庭教師の影響〜

●第2回 法律学校で学びながらピアノに向かう 〜母の死、そして、音楽の潤い〜

●第3回 脱サラして音楽の道へ 〜熱心に学び、活動をスタート〜

●第4回 音楽愛好家一族に生まれたシベリウス

●第5回 厳格な母方の環境、自由な父方の環境

●第6回 フィンランド語系の学校へ転入 〜カレワラを学ぶ〜

●第7回 シベリウスの音楽的興味 〜ヴァイオリン奏者を目指す〜

●第8回 新設音楽院では優等生のシベリウス

●第9回 留学地ヨーロッパでのシベリウス

●第10回 チャイコフスキーとシベリウスの特徴

●第11回 勤勉なチャイコフスキー

●第12回 好きな事に熱中するシベリウス

【チャイコフスキーとシベリウスの生い立ち】 ●第5回 

 

母マリアはシベリウスとその2歳上の姉リンダとの幼子をかかえ、更に第三子クリスティアンを身ごもっていた。こういった状況の中でシベリウス一家は、同じハメーンリンナにある母方の実家で暮らさなければならなくなった。

 

祖母カタリーナ・ボルィは牧師の未亡人で大変厳格であった。また、叔母も厳しかった。母マリアの妹ユリアはシベリウスにピアノの手ほどきをしたが、彼の不熱心な態度にいら立ち、ミスタッチの指を毛糸の編み棒で叩くとういものだった。シベリウスも運指の訓練などを嫌って、ピアノで好きなように即興演奏を楽しむことが多かった。スムーズな育て方ではなかったかもしれないが、母方のボルィ家では、幼い子供たちを連れたマリアが未亡人となり、その将来に強い責任を感じていたのだろう。


一方、夏場にはヘルシンキから東に70キロ程離れた港町ロヴィーサにある父方の叔母エヴェリーナの許で過ごした。こちらでは対照的に自由で優雅な環境であり、ここでもピアノを習った。エヴェリーナにしてみれば、シベリウスらの幼い子供たちは亡き兄の遺児であり、かわいがったのに違いない。

次記事≫ ●第6回 フィンランド語系の学校へ転入 〜カレワラを学ぶ〜

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【チャイコフスキーとシベリウスの生い立ち】 

はじめに

●第1回 チャイコフスキーの幼少期 〜趣味音楽をたしなむ父母、家庭教師の影響〜

●第2回 法律学校で学びながらピアノに向かう 〜母の死、そして、音楽の潤い〜

●第3回 脱サラして音楽の道へ 〜熱心に学び、活動をスタート〜

●第4回 音楽愛好家一族に生まれたシベリウス

●第5回 厳格な母方の環境、自由な父方の環境

●第6回 フィンランド語系の学校へ転入 〜カレワラを学ぶ〜

●第7回 シベリウスの音楽的興味 〜ヴァイオリン奏者を目指す〜

●第8回 新設音楽院では優等生のシベリウス

●第9回 留学地ヨーロッパでのシベリウス

●第10回 チャイコフスキーとシベリウスの特徴

●第11回 勤勉なチャイコフスキー

●第12回 好きな事に熱中するシベリウス

【チャイコフスキーとシベリウスの生い立ち】 ●第4回

 

シベリウスについても作曲家として身を立てるまでの生い立ちをみてみたい。モーツァルトやベートーヴェンは職業音楽家の家系であり、音楽の早期教育を受け、物心の付く前から相当な訓練を受けてきた。その点、チャイコフスキーやシベリウスの幼少期は、あくまでも文化教養の一環として他の習い事と同じように音楽の稽古をしていたに過ぎない。


19世紀のフィンランドでは急速に音楽が広まり、アマチュアの音楽活動も盛んに行われるようになった。シベリウスの両親の家系も皆何らかの形で楽器または声楽をたしなんでいて、この時代のフィンランドの典型的な音楽愛好家の一族だった。


1865年、ジャン・シベリウスはハメーンリンナで生まれた。ハメーンリンナは首都ヘルシンキから北西に90キロ程離れたところにある。

 

シベリウスの父クリスティアンはこのハメーンリンナで医者をしていた。彼は学生の時に学生合唱団で歌っていたこともあり、リュートの弾き歌いを趣味としていた。だが、この父は47歳の若さでこの世を去った。職業柄多くの病人と接している父クリスティアンは、伝染病のチフスにかかってしまったのだ。

 

シベリウスの母マリアは大変な苦労を強いられた。というのは一家の大黒柱を失っただけではなく、クリスティアンが莫大な借金を残して逝ってしまったからである。自分の財力を考慮しない贅の尽くし方、度を越した飲酒など、父クリスティアンはまるで後年のシベリウスの姿とそっくりだった。

 

ただ、当時2歳半でしかなかったシベリウスには、この父の記憶はほとんど残っていない。

 

次記事≫ ●第5回 厳格な母方の環境、自由な父方の環境

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【チャイコフスキーとシベリウスの生い立ち】 

はじめに

●第1回 チャイコフスキーの幼少期 〜趣味音楽をたしなむ父母、家庭教師の影響〜

●第2回 法律学校で学びながらピアノに向かう 〜母の死、そして、音楽の潤い〜

●第3回 脱サラして音楽の道へ 〜熱心に学び、活動をスタート〜

●第4回 音楽愛好家一族に生まれたシベリウス

●第5回 厳格な母方の環境、自由な父方の環境

●第6回 フィンランド語系の学校へ転入 〜カレワラを学ぶ〜

●第7回 シベリウスの音楽的興味 〜ヴァイオリン奏者を目指す〜

●第8回 新設音楽院では優等生のシベリウス

●第9回 留学地ヨーロッパでのシベリウス

●第10回 チャイコフスキーとシベリウスの特徴

●第11回 勤勉なチャイコフスキー

●第12回 好きな事に熱中するシベリウス

 

【チャイコフスキーとシベリウスの生い立ち】 第3回

 

1859年には法学部の全課程を終え、法務省に事務官として勤務を始める。しかし、こうして社会人になってすぐに勤務の傍らでロシア音楽協会付属の音楽教室に通い始める。この音楽教室は1862年にペテルブルグ音楽院となった。チャイコフスキーが音楽院に通い始めた頃は、法務省の勤務にも時間を取られ、あまり熱心な学生ではなかったのだが、1863年にとうとう法務省を辞職し、音楽に没頭した。チャイコフスキーが音楽家になることを父イリヤは早くから理解を示してくれたが、他の家族は喜ばなかった。

 

画像:ペテルブルグ音楽院

(サンクト)ペテルブルグ音楽院


音楽院では作曲家でピアニストのアントン・ルービンシテインのクラスで学んだ。その当初、彼は他の優秀な学生に比べ、専門家としての音楽理論やクラシック作品の知識がかなり貧弱であった。しかし、脱サラまでした彼は、根気よく音楽の習得に努めた。音楽院での親友ラロシは、「アントン・ルービンシテイン教授が学生に与える課題は膨大で、多くの学生がやり遂げようと試みなかったが、チャイコフスキーは時間を費やし仕上げてきていた。」と証言している。またある時は、与えられた主題の変奏曲を作曲する宿題で、200余りもの変奏曲を仕上げて提出して、さすがに教育熱心なアントン・ルービンシュテインも、喜びの反面辟易してしまったこともあった。このように常に熱心な勉強家であり、この訓練を経て作曲家になった。


チャイコフスキーは卒業と同時にアントン・ルービンシテインの弟ニコライからの誘いで新設モスクワ音楽院の音楽理論の講師を務める。ニコライ・ルービンシテインはピアニストかつ指揮者であり、駆け出しの彼を良くサポートした人物である。また、彼は、チャイコフスキーの中期までの作品で初演指揮を数多く果たした。こうして作曲家としての活動をスタートさせていった。

 

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【チャイコフスキーとシベリウスの生い立ち】 

はじめに

●第1回 チャイコフスキーの幼少期 〜趣味音楽をたしなむ父母、家庭教師の影響〜

●第2回 法律学校で学びながらピアノに向かう 〜母の死、そして、音楽の潤い〜

●第3回 脱サラして音楽の道へ 〜熱心に学び、活動をスタート〜

●第4回 音楽愛好家一族に生まれたシベリウス

●第5回 厳格な母方の環境、自由な父方の環境

●第6回 フィンランド語系の学校へ転入 〜カレワラを学ぶ〜

●第7回 シベリウスの音楽的興味 〜ヴァイオリン奏者を目指す〜

●第8回 新設音楽院では優等生のシベリウス

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【チャイコフスキーとシベリウスの生い立ち】 第2回

 

1850年、チャイコフスキーは母アレクサンドラに連れられてグリンカのオペラ「皇帝に捧げた命(イワン・スサーニン)」の上演を観に行った。この公演は当時10歳だったチャイコフスキーに生涯忘れることのできない感動を与え、40年以上経ってからも、ある編集者との対談でこの作品に対する愛敬の気持ちを強く語ったという。すでに学齢期を迎えていたチャイコフスキーは、このオペラ鑑賞の数週間後にペテルブルグ法律学校に入学した。


ペテルブルグ法律学校は寄宿舎での生活となり家族とは離れ離れとなって、つらい日々を送った。さらに、1854年母アレクサンドラが40歳の若さでコレラにより他界した。元々感受性が強いチャイコフスキーだけに大きな衝撃であった。こんな生活においても音楽が潤いを与えてくれた。寄宿舎時代のチャイコフスキーについて、学友ミハイロフが次のように述べている。

 

『音楽室で何時間もぶっ続けにピアノに向かっていた。見事な演奏だった…本物の音楽家のようにみえた。』


チャイコフスキーに対して「本物の音楽家のようにみえた。」というのも滑稽な評であるが、やがてロシアを代表する作曲家になる彼も、当時はまだ趣味の領域であった。この時期の彼について、音楽面での記録は少ないが、ピアノのレッスンに新たに通い始めたとか、イタリアの声楽家に出会うといったようなことがあったようだ。

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【チャイコフスキーとシベリウスの生い立ち】 

はじめに

●第1回 チャイコフスキーの幼少期 〜趣味音楽をたしなむ父母、家庭教師の影響〜

●第2回 法律学校で学びながらピアノに向かう 〜母の死、そして、音楽の潤い〜

●第3回 脱サラして音楽の道へ 〜熱心に学び、活動をスタート〜

●第4回 音楽愛好家一族に生まれたシベリウス

●第5回 厳格な母方の環境、自由な父方の環境

●第6回 フィンランド語系の学校へ転入 〜カレワラを学ぶ〜

●第7回 シベリウスの音楽的興味 〜ヴァイオリン奏者を目指す〜

●第8回 新設音楽院では優等生のシベリウス

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●第10回 チャイコフスキーとシベリウスの特徴

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●第12回 好きな事に熱中するシベリウス


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