【チャイコフスキーとシベリウスの生い立ち】 ●第11回

 

一般的にチャイコフスキーはロシアの作曲家の中でも作風がヨーロッパ寄りだと言われていて、国民楽派として扱わない人もいる。本人も1880年に完成した弦楽セレナーデを作曲した際に、モーツァルトを意識して書いたという手紙をパトロンのナデジダ・フォン・メックに宛てて書いている。また、すでに何年も前に大成功を収めていた交響曲第2番も1880年になってから大改作した。初稿は抒情的でドラマティックな、いわゆるチャイコフスキーらしい交響曲であったのだが、それを感情表現が抑制された古典派的な行儀のよい作品に変えている。次第に国際的に名が知られていくにつれて、西ヨーロッパ的な視点で見られたとしても評価される作品に近づけたいという意識が見て取れる。また、実際にヨーロッパ各地を旅することも多くなった。


この頃に作曲されたヴァイオリン協奏曲では不運なことに見舞われた。まず、この協奏曲を完成させると、当時のロシア最大のヴァイオリニスト、レオポルド・アウアーに見せて初演をしてもらおうとしたが、アウアーに「演奏不可能だ」言い切られてしまいペテルブルクでは発表が出来なくなってしまった。

 

すると、この行き場のなくなってしまった協奏曲を拾い上げるものがいた。アドルフ・ブロドズキーというロシア出身でヨーロッパ在住のヴァイオリニストである。彼がこの協奏曲を1881年、ウィーンフィルハーモニー管弦楽団の演奏会で初演した。ところが、これに対し当時の音楽界で影響力のあったウィーン大学教授の評論家ハンスリックが酷評を下した。ロシアの安酒の悪臭がするという。この言い回しは、作品が心を捉えないという意味ではなく、強い嫌悪感を覚えたということだ。また、ハンスリックから見たロシアという辺境国の人間に対する蔑みの感情も含まれている。

 

シベリウスも留学中にこのような視線を浴びることが多かったはずである。彼に下された「粗野で野蛮」との評価もその一例といえる。


今日では、チャイコフスキーもシベリウスもそれまでのヨーロッパ中心部の音楽と違うからこそ価値があるとされている。しかし、当時は遅れた地域の感性、もっと悪く言えば田舎者のセンスとされてしまう場合も少なからずあり、批判を受ける側も甘受していた。


このヴァイオリン協奏曲の頃から1888年に交響曲第5番が完成するまでの期間に完成した、主要作品が少なく、チャイコフスキーのスランプ期と言われている。しかし、ようやく完成した交響曲第5番も初演当初の批評は厳しいものであり、本人ですら「大げさに飾り立てられた、作り物のいやらしさがある。」との自己批判をナデジダ・フォン・メック宛の手紙で述べている。スランプ期以前の交響曲第4番についての手紙では「わたしの最も優れた交響曲のように思える。」と書いているのと比べると第5番はかなり自信がないことがわかる。チャイコフスキーは学生時代から大変な勉強家で、批判を受けたり、足りない部分を見出したりすると実にまともに取り組むのである。

 

しかし、芸術である以上、万人の賛同を期待することは無理であり、特に作曲などの次々と新しい作品を創造する分野は、欠点に胡坐をかいてでも個性的なものが必要になってくる。

 

チャイコフスキーはしっかりとした技術を持ち、自分のスタイルも確立していた。それにもかかわらず、他人から受けた指摘に向き合い、自己批判をおこたらず、努力家であるがゆえに答えのないものを追う羽目になったように思われる。作品がヨーロッパ風だというのも、自分のスタイルの欠点を補おうという彼の真面目さが表われているのかもしれない。

チャイコフスキー

 

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【チャイコフスキーとシベリウスの生い立ち】 

はじめに

●第1回 チャイコフスキーの幼少期 〜趣味音楽をたしなむ父母、家庭教師の影響〜

●第2回 法律学校で学びながらピアノに向かう 〜母の死、そして、音楽の潤い〜

●第3回 脱サラして音楽の道へ 〜熱心に学び、活動をスタート〜

●第4回 音楽愛好家一族に生まれたシベリウス

●第5回 厳格な母方の環境、自由な父方の環境

●第6回 フィンランド語系の学校へ転入 〜カレワラを学ぶ〜

●第7回 シベリウスの音楽的興味 〜ヴァイオリン奏者を目指す〜

●第8回 新設音楽院では優等生のシベリウス

●第9回 留学地ヨーロッパでのシベリウス

●第10回 チャイコフスキーとシベリウスの特徴

●第11回 勤勉なチャイコフスキー

●第12回 好きな事に熱中するシベリウス