【チャイコフスキーとシベリウスの生い立ち】 ●第9回 

 

1889年、ヘルシンキ音楽院を終えたシベリウスはベルリンに留学する。

 

ここで師事したアルベルト・ベッカーは古いスタイルの作曲家でシベリウスは内容的に不満があったようだが、それでもこの師は推薦状をかいて奨学金が得られるように取り計らってくれた。また、そういった古典的なスタイルを十分に学んだことは、大いに意味があったはずである。


ベルリンから帰国すると次はウィーンに留学した。ベルリンでは音楽のスタイルが古いといった不満をもったシベリウスであったが、このウィーンはヨーロッパ中からの有能な若い音楽家が集まっており、今までのように特別に輝いた存在とはならず、ヴェゲリウスやベッカーのような暖かい扱いは受けなかったようだ。「粗野で野蛮な音楽」という評価を受けた。

 

また、作曲のレッスンを受ける一方、ヴァイオリンでウィーンフィルハーモニー管弦楽団の入団試験も受けている。彼があがり性だったためにこの試験で失敗したと伝えられているが、そもそもヴァイオリンの学習歴を見る限り合格するのは難しかったように思われる。ピアノやヴァイオリンという楽器は、モーツァルトやベートーヴェンの時代からすでに早期教育が行われ、練習量も年齢に見合わない程なされていた。ウィーンといえばヨーロッパ各地からそういった訓練を積んできた者が集まっており、音感が良いという程度で、楽しみを優先して学んできた彼は、かなり見劣りがしたはずである。また、作曲志望者の多くもそのようにしてピアノ等の器楽を学んできており、シベリウスが特別に期待される存在で無かったとしても不思議ではない。


しかし、シベリウスはこのウィーンで管弦楽法を学んだ。それまでの彼は、管弦楽に触れたことがなく、書いてきた作品も室内楽曲や独奏曲だけだった。後の活躍を思えば、この地でオーケストレーションを習得したということが、学生として優秀だったかどうかといった下世話なことよりもはるかに大きな価値があった。


1891年、シベリウスは留学生活を終えフィンランドに帰国し、ここでウィーンにいたときから着想したクレルヴォ交響曲を書き進める。完成は翌年に持ち込まれ、1892年4月28日に初演がおこなわれた。結果は大成功で作曲家シベリウスの名が広く知れ渡った。

 

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【チャイコフスキーとシベリウスの生い立ち】 

はじめに

●第1回 チャイコフスキーの幼少期 〜趣味音楽をたしなむ父母、家庭教師の影響〜

●第2回 法律学校で学びながらピアノに向かう 〜母の死、そして、音楽の潤い〜

●第3回 脱サラして音楽の道へ 〜熱心に学び、活動をスタート〜

●第4回 音楽愛好家一族に生まれたシベリウス

●第5回 厳格な母方の環境、自由な父方の環境

●第6回 フィンランド語系の学校へ転入 〜カレワラを学ぶ〜

●第7回 シベリウスの音楽的興味 〜ヴァイオリン奏者を目指す〜

●第8回 新設音楽院では優等生のシベリウス

●第9回 留学地ヨーロッパでのシベリウス

●第10回 チャイコフスキーとシベリウスの特徴

●第11回 勤勉なチャイコフスキー

●第12回 好きな事に熱中するシベリウス